2007-03-12

主義

ある会合で、質問されたました

それが、初対面の人ばかりの集まりで、まあ、僕の言い方の癖など理解してもらってないでしょうから、クダクダと長い話をしました

いつもはそんなにしゃべりません

感触を大事に、というのがモットーですので、言葉はどうも信用できないからです

で、その質問

宗教はきらいだ
社会主義が世の中を良くしてきた
なぜ、宗教はもっと社会的な活動をしないのか?
もっと活動するべきだ


こんな意味のことを、白いスーツの、ハッと目立つような綺麗な女性から言われました

よくあるパターンの考え方でして、ちょっと退屈でしたが、時間をいただいてお話しました

どだい、僕など宗教界を代表してご案内をするようなエライ存在などではありません
場をぶち壊してもいけないと思い、遠慮しながら話したので、うまく説明できませんでした
で、言いたかったことを下に書きます




>宗教は嫌いだ
宗教を好きでも嫌いでも、どーでもいいです


>社会主義が世の中を良くしてきた
賛成
そして、自由主義が社会を良くしてきた 賛成
    資本主義が社会を良くしてきた 賛成
    共産主義が社会を良くしてきた 賛成
    全体主義が社会を良くしてきた 賛成
    
なおかつ、社会主義にも欠点がある
     自由主義にも欠点がある
     資本主義にも欠点がある
     共産主義にも欠点がある
     全体主義にも欠点がある

これは、別段議論でもなんでもないんで
ついでに言えば、主義と名のつくものは、たぶん僕はついていけないでしょう
僕はアバウトですから


>なぜ、宗教はもっと社会的な活動をしないのか?
>もっと活動するべきだ

これは、ちょっとね、考え方を深めてもらいたい部分でした
皮相的、形式的な理解を一般化していて、まともな話になりそうもないからです

先ず「宗教は」という設問のしかた
なんと言うか、ヌルイ

そんなもん、紙に書かれた文字にしかすぎません
趣味でイデオロギー論争をするなら勝手にしたらいいけど、プロトコルですよね、言葉の定義から念入りにしないと、しりとり合戦のような、空虚な話になりますよ

これが、好きな人が多いのよ
僕的には、メンドイ、ダルイ、退屈、どーでもいい

それでですね、「信仰」
「信仰」は、各自の胸の中にあるのです
信仰や祈り、それは、自分と神なり仏なりの神聖な「なにか」に対する個人的な問題です
てっとり早く言えば、勝手にしたらいいし、愛想のある言い方をすれば、各人の生き様にまかされている

語り合うなら、それを語ろうよ


>なぜ、もっと社会的な活動をしないのか?

これですね、人間のコミュニケーションを、どの程度の範囲で感じてるかということですね

たとえば、なにか、アッピールする
それを、「言葉」でする
でも、ホントのコミュニケーションは、もっと深い所でしてる

坊さんという存在は、もっと深い所に根を張って活動してるんです

言葉より深い、心、で繋がって、コミュニケーションしようとしてるんです

たとえば、葬式行って、坊さんがお経を読んでる
なにを言ってるかわからない
「意味を説明して欲しい」と質問する
その時の答えは、だいたい決まってるんです
「説明するともっとわからなくなる」

ふざけてるんじゃありません
言葉の意味よりもっと深いコミュニケーションがあるから、そういう答えになるんです
まあ、本当に知りたければ、自分で本でも買って読めばいいです
冗談抜きで、これで何百年もやってきたんです

社会活動をする坊さんも多いけど、それは、各個状況に対処せよ、だよ
向いてることを、出来る範囲でしたらいいんじゃないの

実際、いろいろしてるよ



>もっと活動するべきだ

これって、どういう世界観で出てくる質問か、はたと考えましたよ
で、適当にはぐらかしました

僕らがしたいと思ってるのは、言葉よりもっと奥の、心のコミュニケーションなのですよ

社会改良とか、改革、不正追及、奉仕活動、慈善事業、なんでもいいけど、べつだん、坊さんだけの問題じゃないからね
人間であるかぎり、関心を持たなければならないことじゃないの

みんなで、取り組みましょうよ
としか言えない



  

ラベル:

2007-02-22

華厳コスモロジー

僕は、基本的に、自分の感触を信じることが一番大事だと考えているので、さほど関心のない話題だったのですが

お釈迦様を、「神の被造物だから神より格下だ」とか、「涅槃に入ったと言うが、もともと人間だから、人魂であり、それ以上の天界から見れば下界の存在だ」とかいう理屈

「神の被造物だから神より格下だ」という理屈はキリスト教原理主義でよく聞くせりふ

「涅槃に入ったと言うが、もともと人間だから、人魂であり、それ以上の天界から見れば下界の存在だ」という理屈は、ある神道の一派が唱えている



お釈迦様は、人間です

僕は、インドで、遺骨をこの目で見ました

お父さんは、スッドーダナ王、お母さんはマヤ夫人、奥さんはヤショーダラ姫、一人息子はラーフラ
アーナンダは従兄弟


人間が被造物だと言うなら、そのとおりだし、もともと人間だというのは、全く異論がありません



ですけど

被造物--->格下
もともと人間--->天界から見たら下界

という、理由付けが、どうも、証明不可能な、神話と言えば神話だし、信仰的結論といえばそういうことだし、ま、異論を差し挟むこともできると

「格下」「下界」って、これって、自虐コスモロジー

つまり、「人間は、我が神よりアホな存在じゃ」と、言ってる本人も人間なわけで、自虐発言になりますな

でもって、お釈迦様はれっきとした人間ですから、自分の神のほうが上と

まあ、だれでも、自分勝手な理屈やらコスモロジーやら振りかざすわけですから、よくある話ということになるんだけど

優劣つけて、比較して、勝ち負けを決めるという、一見わかりやすい方法論がですね、これ、仏教が否定してる世界観なのよ


一神教的世界観やら、神道原理主義にどっぷり浸かっていると、ここのところが、まったくわからないと思うよ


なにかこう、世界がピラミッド構造になっていて、その下の方のどこかが人間の居場所だという考え方
世界を創造した全知全能の根本存在と、人間は隔絶していて、つまり、人間が神になることは絶対に無いという考え方

べつに、それで気が済むならそれでかまいませんが、宗教コスモロジーの覇権争いを永遠にしなきゃならないよ
我が神が一番だって、闘争が終わらないですよ



で、仏教の唯識観を下に図示します
華厳コスモロジーですね



緑の波が人間

眼耳鼻舌身は感覚器官

意識が大脳の活動

マナ識が、個人という侵しがたい個別性の境界線

アラヤ識は、過去すべての記憶を貯蔵するところ

如来蔵というレベルが、いわゆる繋がっている部分

で、一切合切、まとめて含有して解放されたレベルが涅槃と

青の矢印ですけど、実は、上向きの矢印の外界を認識してるんじゃなくて、下向きの矢印で、自分の心を認識してる
アラヤ識や、マナ識という、個人的経験とか勝手な妄想のフィルターを通じて、ホントの世界を、いわば、色眼鏡をかけて見てる

天使とか菩薩、八百万の神、などは、マナ識のある、つまり自我のある存在で、緑の山の形が違う位の、人間に近しい存在と、仏教では考えてます

涅槃に行ってしまわないかぎり、幽霊でも、霊界でも、神仙界でも、自我は消えません
涅槃に行ってしまうと、私であり同時にあなたであり、生きとし生ける一切になります

生死は、赤線のマナ識より上の部分の明滅ってことでしょうね



大毘盧遮那成佛神變加持經(大日経)

如何が菩提とならば、実の如く自心を知るなり

「悟り」とは、ありのままの自分の心を知ることである

「悟」という字は、わが(吾)こころ(心)と書きますね(^^)



で、下に向かう矢印を、本来悟っているところに「帰る」と考えるか「行く」と考えるかで、仏教のなかでもニュアンスが違う立場があります

「帰る」が天台で
「行く」が真言です

ま、ここらへんは、趣味の問題ですが

僕らの内部に、「光の根源」があるのです
僕らは「光のかけら」だとも言える

汎神論ですね
自分が神であり、周囲の人も皆さん神です



それで、「絶対的な創造主としての神」という概念は、意識の産物であって、だから、どっちが正しいとか決着はつかないと、僕は考えてます

お釈迦様は、無記といって回答無しです、関心がない、どうでもいい問題とみなします

まるごと、こういう世界を神様が作ったんだという考えかたはですね
しりとりのように、そのエライ神様を作ったのはこちらの神様、そして、そのエライエライ神様を作った神様、そのエライエライエライ神様をつくった神様・・・
と、無限につづくことになります

だから、仏教は、まるで相手にしませんが、おやりになりたければ、どうぞ

ラベル:

2007-02-17

信仰・反省・努力

仏舎利(お釈迦様の遺骨)を供養する供養塔は
くだけた言い方をすると、お釈迦様のお墓です
それを、木札なりなんなりに神格化したのが、祈祷札の起源です

で、僕らのお墓も、遺骨のうえに石塔を建てています
ですから、お釈迦様のお墓と僕らの先祖のお墓は、原理的に一緒のものです

それでですね、僕ら、先祖のお墓参りに行ったとき、家内安全、身体健全、商売繁盛など、欲張って祈願しますか?
「見守ってください、導いてください、がんばってるよ、心配しないで」と亡くなった方と対話してるんじゃないですか

ですから、お釈迦様のお墓にお参りしたとしても、同じことです
「見守ってください、導いてください」というのがホントでしょ

だから、祈祷札の起源がよくわかっていれば、御祈祷は自分勝手な願望成就を願うようなものじゃない、ということがわかってくるわけですよ



「御利益は、信者さんが持ってくる」って書きましたが、坊さんが祈祷をしても、信者さんの信仰がなければ霊験はありません
霊験があれば信者さんの信仰のおかげ、霊験が無いと言うのは欲張りすぎで反省するべきことがある、というのが仏教の祈祷の考え方じゃないですかね


種子金剛界曼茶羅図

織成 縦71.3 横39.5 江戸中期(18世紀)
やや光沢のない金糸で、豪華な天蓋を戴く種子両界曼茶羅を織り出した双幅である。箱書には、「蓮糸」とあるが、普通の絹糸を用いている。
明治3年(1870)に、徳川家から寄付されたものである



さて
仏教は、月並みな結論ですが

信仰・反省・努力

この積み重ねと繰り返しです


「霊的な力のコントロール」というのは、仏教的な考え方じゃないってことです


亡くなったご先祖様が僕らを心配してくれているように、神仏が無条件に僕らを心配してくれているってことを、是非、信じてくださいね

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千の風になって

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
・・・・

千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています


新井満さんが、翻訳の経緯を書いているけれど

ここ

もともと英語の詩があったらしいですが、作者不詳ということになっています
アメリカ先住民の作ったものという説もあるようです

これを、秋川雅史さんが歌って、紅白にも出ましたが、実は、この秋川さん、四国の西条市出身です
世界的にご活躍されていますが、西条祭りには必ず帰国されるそうです

西条祭り

西条市内には120以上のだんじりがあるそうです
祭り期間の10月14日から17日までは、市民全員祭りに参加するので、ガソリンスタンドもタバコ屋も喫茶店も全部休みで、市外にいかなければなりません

江戸時代、西条藩主が奨励したのがもともと始まりのようです
勇壮な気風を育てようとしたのだと思います

その名残でしょうか、祭り期間中、いったん「お旅所」にすべてのだんじりが一カ所に集合して夜祭りになりますが、それは、在る神社の前にある祭り用の特別な広場です



翌朝、「御殿前」といって、西条藩主の陣屋跡の西条高校前(今も陣屋の門が遺されている)に集結しクライマックスになります


実は、在る神社とは、西条東照宮で、ご神体は東照権現、徳川家康公です
そして、初代西条藩主は紀州徳川家初代藩主徳川頼宣の次男、松平頼純です

そう、西条藩は紀州徳川家の分家なのです


秋川雅史さんと、僕は、細い糸ですが繋がっているのです、そして、「千の風になって」の歌も
(ま、気持ちの問題ですから)


僕も、いちど祭りに行きましたが、西条市内に宿泊できなくて、となり町で探してもらいました




前回、お札があるのと無いのとでは

訓練、と実戦
ままごと、と本物
思いこみ、と現実

位の違いがある、と書きましたが

これは、お墓にもあてはまるんじゃないかと思います

無ければ無いで、間に合います
でも、無いと寂しいです

先祖がそこで暮らしてるわけじゃありません
でも、あれば落ち着きます

お墓参りに行くと、やっぱり、亡くなった方は喜んでくれます

そして、千の風になって、そばにいてくれます

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2007-02-16

御利益は、信者さんが持ってくる

僕の亡くなった親父は、商売人だったから、毎年新年に、川崎大師で商売繁盛の祈祷をお願いしてお札をもらっていました
それが、ある年だけ、魔がさしたのか、祈祷をしてもらわなかった年がありました
その年に、大きな不渡りを食らったのです
結果、川崎大師には、なにがなんでもお参りするようになりました



これは、このBlogで書いた話だけど

こちら

高野山の奥之院でもらう紙札を、友達がどのようにお奉りしたらいいか電話で聞いてきたので、適当に(^^;)答えておいたら、言ったとおりにした、次の日の朝一の電話で大きな商談がまとまったなんてこともあります
友達は当然、弘法大師の熱烈な信者になりました




学生の時、生駒の信貴山で新年の祈祷のアルバイトをしたことがあります
知ってる方も多いと思いますが、信貴山では虎の日は特別多い参拝者があって、僕は12年に一度の虎年にお手伝いに行かせてもらいました
信貴山の麓は、知る人ぞ知る、日本一拝み屋の多い土地柄です
3000位あるとも言われてます

で、信貴山でいろいろ教わったのですが
御利益は、信者さんが持ってくる
ということ
坊さんも祈祷しますが、基本は、信者さんの信仰だということです
聖徳太子の頃から祈祷し続けた寺の教えです



長保寺 鎮守堂 (1295) 重要文化財



じゃ、信仰さえあれば、それで間に合うのかと言うと

お札がある、とお札が無いでは
訓練、と実戦
ままごと、と本物
思いこみ、と現実

位の違いはあるんじゃないかと思いますよ

お札があって礼拝すると、神仏の力が、漠然としたイメージでしかないものが、リアルな現実になります

無いと、どうしても、自分勝手な妄想のほうに行ってしまいます

お札には、心がフラフラしないで、神仏にちゃんと繋がるように促す力があるんでしょうね

ラベル:

2007-02-15

祈祷札の話2

仏頂系密教について書くと、かなり複雑で長くなります
実は、このBlogでも、今までかなりいろいろ書いてきました
サイト内検索でお調べいただければありがたいです

鐘声3

要点だけかいつまんで書いときます


仏舎利を神格化する過程で、太陽のイメージに仮託するようになりました
月や星が夜空に輝いても、太陽が出れば、その明るさで光が見えなくなるように、ぬきんでた威光があるのに例えて、神々や菩薩を月や星に例えて、仏の威徳を太陽に例えたのです

真言をボロンの一字で(サンスクリットでは一文字になる)現すので、一字といい、太陽のことを、別名で金輪というので、一字金輪といいます
仏の中でも最尊であることを現すために、頂点を示す、仏頂といい、合わせて、一字金輪仏頂如来(いちじきんりんぶっちょうにょらい)といいます

日本密教では、金輪は、威徳最尊であるから、天皇の意味にもなります

密教で真言を唱える時は、真言の功徳を成就させるため、必ず最後に一字金輪仏頂の真言を唱えることになっています

仏教の祈祷札の起源は、仏舎利を供養する塔に見立てた、一字金輪仏頂の木札です
素朴な木の搭婆に、仏舎利を示すボロン字を書いたものです


お釈迦様が存在した、最終的な物的証拠は仏舎利です
仏舎利の神格化と、最重要化は必然的なものです


そして、長保寺の本尊は、金輪仏頂像法という極めて特殊な奉り方をされた、釈迦如来なのです

天台宗全盛期の平安時代に、天皇勅願寺だからゆるされた奉り方です

ニューデリーのインド博物館にある仏舎利とソープストーンの容器 今はボンベイに分割されているらしい


アショカ大王は、お釈迦様の入滅後立てられた8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して新たに建てた8万4千の塔に分納したと伝えられています

その、第1搭、一番目の搭はどこにあるかというと
ラージギルの霊鷲山(りょうじゅせん)です
法華経と般若心経が説かれた場所です

僕は、霊鷲山にもう3回参拝していますが、ここから、あるものを授かって、本尊の釈迦如来の体内に納入しました

また、赤い数珠を使うようにとの霊示で、ルンビニーで求めた赤い数珠を使っています
使い方も授かりました

それで、一字金輪仏頂の祈祷札を開眼しています

一切如来神力所護(一切の如来の神力によって護る所なり)という仏の誓願によって、霊験が生じます

仏の大慈悲は、遍満しています

お札を礼拝する人の心は、無条件に必ず、仏に通じます



お釈迦様の涅槃の日にしるす

ラベル:

2007-02-14

祈祷札の話

今、どこのお寺や神社に行っても、祈祷札(きとうふだ)があります
紙札とか、木札に、お寺か神社の名前と、本尊さんの名前、祈願の種類などが書かれています

自分なりの祈願をたのんで、授かることもできます

実に、いろんな種類のお札があります


で、これ、いつ頃から始まったんでしょう

ま、ネアンデルタール人はやってなかったと思う
そこまでさかのぼらなくても、じゃ、日本ではどうだったんでしょうね

呪符木簡が、ま、どうやら古いと、今、ネットで調べました(^^;)
便利ですな


平安か、奈良かそれくらいかな
中国へ行けばもうちょい古いか

で、とりとめのない話になるので、仏教ではどう考えるのかということに話を限定します


もともとお釈迦様が在世のころは、祈祷はありません
禁じていたという研究もあります
黙認していたという説もあります

いずれにせよ、坊さんが、なすべき仕事とはみなされていませんでした

人間の救済を、極めて狭く、深く、厳しく考えていたと思います

歴史的にみれば、お釈迦様が亡くなってしばらくして、仏典結集が何回か行われました
お釈迦様が、「なにを説いたか」が重要で、それに従って修行しようと
ま、まっとうな、発想です

それから、次世代になると、お釈迦様の舎利(しゃり)つまり、遺骨ですね、その上に搭を建てて崇拝するようになりました

平成3年1月4日 サールナート ダーメーク大塔にて ダライラマ法王のカーラチャクラタントラの灌頂を待つチベットの巡礼者


仏舎利信仰ですね

今でも、インドには世界中から巡礼者が訪れます
多いのは、チベット、韓国、台湾、タイ、ミャンマーなど
インド人は、お釈迦様が、ヴィシュヌの9番目だったかの化身だということになっていて、大事に信仰してもらってます

仏滅後、教えを中心にしてたのが、仏舎利信仰になり、それが、1000年位して、密教になります
仏舎利が神格化して、大日如来になってきます

仏舎利の神格化には、プロセスがあって

お釈迦様--->仏滅--->結集経典--->仏舎利--->仏塔--->太陽(金輪[きんりん]とも言う)--->大日如来

と、大雑把に言えばこうなります

仏塔信仰と太陽信仰が合体した経典が、多数残されています

一字金輪仏頂(いちじきんりんぶっちょう)を中心とした仏頂系密教経典です

真言密教しかやってないと、こういう密教のホントの歴史を案外知らないです

真言では、弘法大師が金胎二部しか言わなかったんで、仏頂系は雑密に分類されていますが、それじゃ、僕の言うことはわからんよ


歴史的には、金剛界と胎蔵より、仏塔信仰は古く

お釈迦様--->仏滅--->結集経典--->仏舎利--->仏塔--->仏頂系密教--->金胎二部--->チベットで、無上ヨガタントラ
という変遷です

お釈迦様が亡くなった後を、どのように埋め合わせるか、という工夫の産物でしょうね

チベットでは、インド直伝ですから、創意工夫も限度があって、金胎の合一という方向で変遷しました
ま、金が唯識観で、胎が空観です
分裂したのが、都合悪いんで、融合に向かいます
これが、父母タントラで、男女合一になって、かなりセックス化するんですな
で、僕は、一皮むいたチベット仏教は好きじゃないですね


日本は、真言では金胎は車の両輪という認識で終わってます
弘法大師が偉すぎるんだと思いますよ

天台からは、自由な発想で、仏教のエッセンスを抽出しようとする天才達が輩出します
法然、親鸞、道元、栄西、日蓮など

平安時代には、伝教大師の次世代の慈覚大師、智証大師などにより、仏頂系密教が盛んに実習されました

で、今も、その流れが連綿と繋がっていると

やっと、ここまできた(^^;)

それで、僕の寺は平安時代に天皇家によって、仏頂系密教の中心として企画され建立されたのです

つづく・・・

ああ・・お札までいかなかった(^^;)

ラベル:

2007-02-11

やっぱり無理ですか

そう言えば、最近だれもあまり言わなくなったけど、アセンション、フォトンベルト、次元上昇、あれどうなちゃったんでしょうね

僕は、特に、ややこしい予言なんかなくても、これから世界は大変なことになるだろうと考えてます

科学技術の進化が、科学技術に見合った、世界観の構築を必要としているんです
つまり、「地球規模の共同体意識」ですけど

脳の産物の進化が、脳のさらなる向上を求めてるわけです

結論から言えば、僕はあるていど楽観的です
脳がバランスをとればいいだけのことですから、たぶん、可能なんでしょう

で、精神世界ブームも、そう考えると、行き先は、そんなに悪くもないかもしれませんね


十八羅漢図  双幅 絹本著色 室町前期(15世紀)
 (右幅)縦116.1 横60.3

羅 漢とは阿羅漢の略で、釈迦はその弟子のうち16人の大阿羅漢に対し、釈迦没後も正法すなわち仏陀の教えを護持し、衆生を済度するように告げたという。これ が十六羅漢で、釈迦の眷属として表されることもあれば、単独の十六羅漢図(像)として尊崇される場合もある。十六羅漢はまた正法護持の修行者としても表さ れるため、禅宗において特に尊ばれた。この十六羅漢図に二羅漢を加えたものが十八羅漢図で、わが国では類例が少ない。
長保寺に伝来するこの十八羅漢図は、左右の各幅に9人ずつの羅漢と侍者・動物を描くもので、中国渡来の画像もしくはそれを範とした日本製の画像と考えられる。
「寄進帳」によると、この画像も和歌浦雲蓋院第4代住職憲海(寛文12年まで在職)が修復を寄進したとあり、長保寺歴代の什物であったことが分かる。




地球温暖化について

マンモスが絶滅したとしても、それは、氷河の溶けた理由が、化石燃料の燃やし過ぎで二酸化炭素が増えたからからというわけではありません

石油燃やしすぎ--->温暖化--->氷河が溶ける--->マンモス絶滅 じゃ、ありません

だから、気候変動が人間活動のせいだと過敏に感じるのもどうかとは思います

ただし、地球全体の温室効果が加速してるというのは世界共通の認識になりつつあり、対策も、出来るところから手をつける必要はあります
このままいけば、あと80年で人類絶滅って計算もあるらしいです

一番は、アメリカの京都プロトコルの批准ですね
それと、中国の批准

それだけで、まったく様変わりします
ま、国際政治が解決しなければならない課題ですよ




核拡散について

核兵器そのものは、使えば必ず報復されますから、なかなか使えず比較的安全です

原子力の平和利用は、石油がいずれ枯渇しますから、していくしかありません
ただ、エネルギーについては、メタンハイドレードとか、太陽光発電とか、有望な方法がいくらでもありますから、原子力発電そのものは、つなぎ、なのではないかと思います

今の国際情勢では、核兵器をもたざるを得ないと考えるほうが、軍事的には正常で、だれかに核の傘で守ってもらえると考える方がノンキ過ぎるのでしょう
核武装したいという誘惑は全ての国がもっていると思います

核拡散した場合、ほんとに、怖いのは、核兵器がテロに使われることです
テロ攻撃では、だれから攻撃されたかわかりませんから、報復できません
ですから、核拡散で怖いのは、ミサイルよりは、テロだろうと思いますよ

ですけど、テロで大量破壊をするだけなら、生物化学兵器でもできます
むしろ、後遺症から考えれば、こちらのほうが危険です
核テロだけが危険なわけではありません

テロ攻撃をする意図そのものが、必要なくなる状況をつくる必要があります
つまりこれも国際政治の課題



通常兵器の戦闘について

朝鮮半島周辺、イラク周辺、イスラエル周辺、アフガニスタン周辺、台湾周辺、海洋油田等周辺などなど
危険な地域はいくらでもあります

軍事衝突は、常にありえますが、破滅的な拡大はしにくいだろうと思います
ミサイルを使えば、ミサイルでの報復がありますから

ただ、軍事バランスが崩れてくると、かなり危険です
一方的な先制攻撃で破滅させらてしまうだけの、軍事技術がすでにいくらもあります

したがって、各国は、つねに軍事バランスを維持する、不毛な努力をするしかありません
莫大な軍事予算を平和活動に使えれば、どんなに素晴らしいか
これも、国際政治の課題



資源枯渇について

エネルギー争奪戦は、これから益々激しくなります

中国の人口14億人、インド10億人、この2カ国だけ考えても、中国とインドが、日本と同じような繁栄を望めば、つまり、エネルギーと資源は日本の24倍必要になります

石油も石炭も、それだけ燃やせば、こんどは地球が加熱してしまいます

原子力利用しかないのではないかと思いますが、とんでもない事故がおきる確率が非常に高くなります
いったん事故がおきれば、周辺国が広範囲に汚染されます

太陽光発電のなにか画期的発明、代替エネルギーの積極的開発がどうしても必要です
それを、おこたれば、生存を賭けた、資源戦争が起きます

食料も、ほんとに、全人類がちゃんと食べるだけ確保できるか、あやしいもんです
肥料、耕地面積など、限界があるのです
公平な、分配の仕組みがなければ、やはり、生存を賭けた、資源戦争が起きます

エネルギーと資源の共同開発と共同利用がうまくいけば、どれほど世界が繁栄するか
で、これも国際政治の課題




化学物質による汚染、遺伝子操作、世界的なマインドコントロール、など、いくらでも危険を数え上げることができますよ


ということで、アセンションを心配する時間的余裕がれば(お暇なら、とも言えます)国際政治にもっと感心をもっていただきたいと思います

具体的には、人間がどうすればもっと仲良くなれるか、考えていただきたいと思います

お互いが、仲良くなることもできないで、国際社会の平和など、夢のまた夢です


で、つまり、身近であなたが憎んでいる人と、仲良くできるかどうか、という問題が、遠い国際社会の平和に直結してるという考え方です

「それは、どうしても無理だ」と考えてる人が、あまりにも多いんですよ

対話すること、理解すること、共通の利益を見いだすこと、お互いを支配しないこと、限度をわきまえること、分かち合うこと、など

これらのことは不可能で、やっぱり無理ですか


ということは
人の話は聞かず、理解は拒否、自分の利益のみ求め、力による支配を画策し、要求に限度はなく、奪い取るだけ

そういう世界に、住むことになりますねぇ

ラベル:

2007-02-10

{なにか}2

おやおや

フリーズしちゃったPCもありますよ
画面が真っ黒になったり、延々と同じ動作を繰り返したりします

いつまでもフリーズしてないで、再起動すればいいのにね

でも、だれが、再起動するんでしょうね・・・

みんな、時間が経つと、必ずフリーズしてしまいます
逃れられない運命だと諦めてるみたいですね





とある、長老のPCが考え込んでいました

「自分のハードディスクの中にある情報が真実なのか、センサーで感じる{なにか}が真実なのか」と



「そうか!!」

どうやら、そんなふうに考える、自分の思考も、{なにか}を材料にして出来ていることに気が付いたようです

ハードディスクの情報も{なにか}の断片だし、思考も{なにか}で出来ていて、なにもかも{なにか}だらけなんです


「{なにか}は電器信号で、バイブレーションだったんだ」


あれ、ちょっと違うような
だって、{なにか}は、上から見つめているんですよ





おやおや

こんどは、センサーやハードディスクを、せっせと改造してるPCがいますよ
大きく、強いPCになりたいみたいですね

「ネットワークの遠くの遠くまで、よくわかる」

喜んでますね
でも、フリーズする運命は変えられないようですね





「{なにか}は、全知全能のアトムの神だ」

「いいや、{なにか}は世界を創造したウルトラの神だ」

「こっちこそ、ホントの神だ」

「いや、こっちだ」

やれやれ

こちらでは、けんかしてますよ





おしゃべりしたり、考えたり、改造したり、けんかしたり、いろんなPCがいますね

まあ、時間は永遠にありますから、いつまでも続けてください


自分は、{なにか}のかけらだって、いつか気が付くでしょう





梵網經盧舍那佛説菩薩心地戒品

我今盧舍那。方坐蓮花臺。
われ盧舍那は、まさに今、蓮華台に坐す

周匝千花上。復現千釋迦。
周囲をとりまく千の蓮華のうえに、また千の釈迦を現わす

一花百億國。一國一釋迦。
一つの蓮華に百億の国があり、それぞれの国に釈迦がいる

各坐菩提樹。一時成佛道。
その釈迦はそれぞれ菩提樹の下に坐し、同時に悟りを開く

如是千百億。盧舍那本身。
かくの如くの千百億の釈迦は、盧舍那を本身としている

千百億釋迦。各接微塵衆
千百億の釈迦は、おのおの無数の衆生を教化している

ラベル:

2007-02-09

{なにか}

光センサー、音センサー、匂いセンサー、味センサー、温度センサー、プラス、6センスセンサーをつけたPCが無数にあるとします

それぞれのPCは、自分のセンサーの届く範囲のことしか感知できません
狭い世界で生きているんです

それでも、自分のセンサーで感じたことをもとにして、いろんな事を考えたりします


早いCPUのPCもいれば、レトロなCPUのPCもいます
センサーの感度も、鈍いものから、ありえない高性能のものまでいろいろです

となりにいるPCとおしゃべりしたりします
仲良くなったり、喧嘩したりもします


自分のハードディスクに膨大な情報を溜め込んだ、神様のような長老PCもいます

ですけれど
最近の流行は
ネットワークを通じて、ほかのPCとおしゃべりすることです

情報革命が起こったんです
もう、みんな、夢中で、ピコピコパチパチ、ネットワークで、おしゃべりします

ネットワークの中には、時差もなければ、距離もありません
すべて、同時に起こっているんです



でも
不思議なことがあります

なぜか、自分のセンサーで感じたことしか信じないんです
自分が一番エライと思っています

長い間、ネットワークを知らなかった時代の名残なのでしょうか

PCの光センサーでは、自分につながった、蜘蛛の糸のように細い一本のネットワークケーブルしか見えません
だから、そのケーブルの先のことなど信じられないのかもしれませんね

センサーで感じる、昔ながらのリアルな情報と、ネットワークケーブルから入ってくる、夢のように実感のわかない情報は、全然違うのでしょうね



あれ?

なんか、みんな、上を見てますよ

上から、自分達を見つめてる{なにか}に気が付いたみたいですね

さっそく、各自、自分のセンサーで分析して、自分のハードディスクに保存したみたいです

「神様を見た」
「アッラーを初めて感じた」
「仏の心にふれた」
「気持ちよかった」
「なんか、泣いたちゃった」
「不思議なパワーに包まれた」
「あれこそがAdministratorだ」




あらら

「怖い目でにらまれた」

なんてPCもいますね
どれがホントなんでしょうね



「唯一の神のことは私しか知らない」

おやまあ



「{なにか}は、PCの数だけ存在し、PCのCPUにあわせて様々な姿となる」

なるほどね





天台大師 総礼伽陀

我是道場如帝珠
わがこの道場は、帝珠のごとし

十方三宝影現中
十方の仏・法・僧がその中に影のごとく現れる

我身影現三宝前
わが身も仏・法・僧の前に、影のごとくに現れ

頭面接足帰命礼
頭面を仏・法・僧の御足に接して身命を捧げて礼をなす

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2007-02-07

霊的ネットワーク

YahooにこのBlogの別館をつくったんですけど、世の中変わったなー、と思いますよ

こちら Quantum Sense

YahooのBlogであちこち読ませていただいてると、いろんな霊体験をカミングアウトして書いてる方がけっこういるんです

増えてきた、というより、人前で話すようになってきたってことかなー

坊さんの間では、昔の人の方が霊感が強かったってよく言うんです
自然の中で、自分の力だけで生きて行かなければならないですから、自然と感覚が鋭敏になりますよね

昔の坊さんは霊感の強い人はいくらもいたようですけど、今は、ほとんど見かけないです
坊さんの世界そのものでは、霊能力は必要じゃありませんしね
世襲制になってきて、特に発心しないで坊さんになる人が増えてきてるせいかもしれませんけど

それで
僕も、この世界で30年やってますから、いろいろ見てきましたけれど、気のついたことがあるんですね

それは、強い霊能力のある人はお互いあまり仲良くならない、ってことです

修学旅行で怪談話に興じる、ってようなレベルではなくて、守護霊なりに教示を受けるとか、自分なりの修行体系をもってるとか、ハイレベルの霊体験をする人のことですけどね

師匠と弟子というような関係はあるんですけど、それ以外で、なにか、共通の目的というか、価値観の共有が希薄ですね

商売なら、お金が共通の価値になって、世界のどこでもコミュニケーションできます
科学とか学問の世界なら、たとえばノーベル賞とか、世界共通の評価ができます
スポーツなんかでもオリンピックとかね

それが、まあ、高度な霊体験となると、世界共通言語というか、共通ルールはないんじゃないですか

キリスト教の伝導のような、神を知らないバーバリアンに福音をもたらす、てな感じの共同幻想の構築ですけど、霊能力者の間では世界的なミッションは皆無でしょうなぁ



夜具断片 一枚 縦45.9 横44.2
江戸後期 長保寺蔵

 表は、草花紗綾形赤綸子地に、竹の子・竹の葉模様を金糸彩糸で縫入れており、裏は、白地に宝尽し模様の入った綸子である。裏地に、「昭徳院殿御夜具之切」と墨書されており、昭徳院(13代藩主慶福)所用の夜具として伝来したものである。

後に、13歳で14代将軍徳川家茂となる。第2次長州征伐に出陣し21歳で大阪城で病没。




宗教的コスモロジーも、霊的感覚も、世界共通の普遍的価値観に、なかなかならんわけです

これは、コスモロジーは囲い込み、感覚は個人的体験という本質的限界があるからです

でまあ、これですね、ピラミッド型の人間関係を作ろうとするから、行き詰まるんじゃないかと考えてます

つまり
トップがいて、幹部がいて、中間管理職がいて、現場の職員がいる構図

簡単にいえば、トップ争いですな
コスモロジーと感覚の普遍化の行き詰まりの、本当の原因は

あー、わかりやす

心の世界の覇権争い

それで、我執というかエゴですよね
この覇権の大元にあるのは

覇権を排除した人間関係、つまりエゴの無いネットワークですね、追求すべきものは

それが、もう、あるんですね







華厳経の世界観です

インドラネット(帝網たいもう)、ですね

仏教的な説明をしてもいいんですけど
もっと、分かりやすいのは、インターネットですね
それが、いちばん形として似ている

それが、こう書くと、華厳のコスモロジーに誘導してるような感じになりますが、しょうがないね、そうなんだからそうなんです

どこにも中心が無くて、自分は自分として独自なもので、共通のプロトコルがあって、情報が共有されるネットワーク

スタンドアロンのPCがインターネットで繋がっている状態が、どうしても似てるじゃないですか


バラバラかって言うと、そうなんだけど、ネットワークは唯一の物として存在してる

ウソや作り話は、どうしても、バレてしまう仕組み


インターネットとインドラネットは、でも、絶対的に違うところが一つあります

インターネットには匿名性がありますが
インドラネットは全て自己責任で匿名性はありません


正負の法則とか、カルマとか、因果応報とか、言いますが、自分という現実から解放されることはありません

涅槃経では、それを、常・楽・我・浄っていうんですけどね
ま、仏教ではですね
常(永遠で)、楽(文字どうり、楽しくて)、我(自己は失われず)、浄(清らかである、価値に優劣はなく、正邪もなく、真偽もない)



心の世界が、激流のように、そっちに向かってるのがわかるかな・・・

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2007-02-01

Believe the dream

Make the originality
Think of the partner
Believe the dream

と、並べてみて、これですね、なにか気がつきませんか

これですね、大脳の構造に合わせたものなんです


Make the originality
創意工夫
これが、前頭葉ですね

Think of the partner
愛、慈悲、共感、相手の立場で考える
これが、大脳新皮質、右脳と左脳が統合的に働いている状態です

Believe the dream
欲望、志、理想、夢を信じる
脳幹にある動物的情動を昇華したものです


ま、かなり、こじつけですけど


桧扇  一握 長38.6 江戸前期 長保寺蔵

 紀伊徳川家初代藩主・徳川頼宣所用と伝えられる、白板25本骨の桧扇である。つがりが締まり開きが狭く、握り留に銀杏形の刳物が生じるという江戸時代以降の特徴をよく示している。両端の親骨には和紙を下地にして糸の葵紋を貼りつけている。同様の資料が、久能山東照宮にも伝来している。



それで、慈悲なんですけど、仏教では抜苦与楽とも言って、慈が与楽、悲が抜苦の意味になっています

で、これ、相手がないとうまくいきません
つまり、受動的
だって、人を愛するって言ったって、愛する相手がないとどうしようもないですもんね

だから、愛とか慈悲を人生の一番の目的にしてると、受動的になっちゃうんですね
どうしても

なんか、ボケーっとしてしまうんです

霊的に言えば、霊障を受けやすい構えですね
受け身ですからどうしてもそうなります

このへんが、伝統宗教の行き詰まりの原因の一つかなーと考えてます

慈悲を強調してると積極性がなくなってくるんです


それで、Believe the dreamの出番ですよ

無欲とか、欲望の制御ばかり強調するから萎えてしまうんですよ

密教では、そこんとこ「欲等調世間」と言って
欲などで世間を調える
と都合のいいこと言ってますけど、これ金剛頂経の一節ですから、れっきとしたもんです

それで、今風に、「夢を信じる」ってことにしときました

無気力なあなた、プチ鬱気味のあなたも

Believe the dream

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2007-01-12

唯識論的汎神論

華厳哲学といえば、唯識になります

三界は唯心の所現、てやつですね

唯識では、神や仏も、心の一部ですから、汎神論になります

つまり、仏さんも八百万の神々も根っこが通じています

だから、神様同士が戦争していたら、愚かなことをしている、と「冷めた目」で見ることができます

これは、日本人的には、べつだん「冷めた目」で見てもなんてことはないですが、一神教的世界観で言えば、必ずどちらかが正義でどちらかが悪になります
正義であれば、殺してもかまわない、という考え方が根強くあります
悪者を退治して、チョン、終わりです

ですけど
華厳哲学では、因果応報と言うんですが、カルマですね

殺には殺の因縁あり、と言います

僕は、戦争などで是非もなく殺した相手とは、生まれ変わって和解するまで縁が続く、と考えてます
というか、そういう例をいくらも見ました

動物などを食べるのは、仏教はやめとけと言い続けてますが、まあ、普通に食べてます
これも、殺の因縁、があります

霊感の強い人は、多くの不成仏の霊に出会いますが、そのほとんどは、自分と前世の縁がある霊だと考えています
つまり、殺したか、食ったか、etc

僕は坊主になって感じますが、僕のような者でも、一気に100とか200とかの霊を成仏させることがあります
それは、仏が前世の罪を滅ぼす力をくれたからです

それを、法力だなどと言う輩がいますが、気違いざたですね

イスラムとかキリスト教も馬鹿じゃないですから、因果応報的な考え方があろうかと思いますが、どうも、僕は、よく知らないです
とんでもないカルマのつけを造っていると思いますよ
ただ、それを、やはり神の愛でチャラにしてもらっていると、僕はそう考えています



雲竜図 絹本墨画 徳川治宝筆
龍はあちこちにいるよ



ブッシュの支持者にキリスト教原理主義者が多いそうですけど、まあ、イスラム原理主義といい勝負だってことですかね

イスラエルなんかだと、聖書にある最終戦争を今戦っていると考える人が多いらしいけど、日本人は、こういう妄想を甘く見ない方がいいよ

妄想は、現実離れしていればいるほど、まともに説得して改めさせるのが難しいですから

イスラエルとアラブ社会の怨念はせいぜい60年ですけど、パキスタンとインドの怨念は数千年になるからね
先に核戦争があるのはこっちじゃないかと思ったりしますよ

どっちにしても、イスラム原理主義が世界平和を脅かしていることになりますかね
イスラムから言えば、自分たちの世界を浸食されているってことなんでしょうけど、解決方法が非平和的だわな
イランは大国なんだから、世界平和に責任のある態度をとるべきだね


地球は、ぼやぼやしてたら、僕らが住めないような星になりますから、先の遠い話ですけど、世界平和は必要です

それには、唯識論的汎神論を誰もが常識としてわかってる必要があるはずなんですど、どうなりますか

今の世界が正常だと思ってる人達が正気なら、僕が狂ってることになりますね

このブログにも読者の皆様がいらしゃいますので、ショボイですけど、蜘蛛の糸のような道筋を探し続けますよ

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2007-01-03

赤ん坊の笑顔


皆様、新年あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いいたします

今年の、お寺のホームページのトップは、多宝塔の金剛界大日如来の画像です
この写真は大阪大仏堂さんがカレンダー用に撮影してくださったものを使用しています

初公開です

平成10年に、中西盛二仏師により修理されました
そのとき、台座の中に、修理寄付者の名前を書き記したものを納入しました

こういう仏像の修理は、すくなくとも300年に一回は必要になります
金箔などを漆で張り付けていますが、漆の接着力が300年位で無くなってきて、剥がれてくるからです

この仏像は、平安時代の一木造りで、目は彫眼、中刳りなしで素朴な造りです
おそらく、お寺で一番古い仏像で、1000年ほど前のものでしょう

黒ずんだ金属製の冠と髪飾りを被っていますが、これは江戸時代位のもので、付近のお寺の仏像に冠を寄進してまわった人がいるらしく、近辺の寺に多数の類例があるそうです
たぶん、冠と髪飾りは当初はなかったものと思われます
まあ、お気持ちを無にするのもなんですし、かっこいいので、そのまま被ってます

だれが開眼したかは、わかりません
不明です

拝んでみると、どうも、慈覚大師の性根が入っているようですが、感じられますか?




去年のベストセラーの本は「国家の品格」だったそうです
いろいろと、国家ということを考えさせられた年でした
安部総理も「美しい国」という本を出しましたが、「品格」といい「美しい」といい、あるいは「誇り」も、情緒的で感覚的な言葉です

これからは、外から強制された、型にはまったコスモロジーではなく、自分の中にある内部感覚を大切にする時代なんでしょうね

内部感覚という話をすると、すぐ、自分勝手で傍若無人で独り善がりで無秩序な混乱になると心配する人がいるんですが、ホントにそうでしょうか

どんな、無茶苦茶な人間も、赤ん坊の笑顔を持っていたんですよ


その、内側から咲きこぼれる笑顔は、やっぱり信じられると思いますよ

僕はいつも、妄想と執着って言ってますが、その笑顔を自分で汚してるんじゃないですか

右上の「光の瞑想」で微笑むのが大事だって言ってるんですけど、この無邪気な笑顔なんですよ
どうも、瞑想するとき「微笑む」のが大事って、あんまり誰も言わないんですよ
理解に苦しむね(日本の伝統宗教にもあるぞ)

人間に、忘れられているかもしれないけど、無垢な部分があるってことで、まあ、内部感覚も捨てたもんじゃないってことにしときませんか

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2006-12-28

責任感

読売新聞12月28日
奈良県教育長に東大寺の上野師
東大寺(奈良市)の上野道善・大仏殿院主(67 )が奈良県教育委員長に就任し、「多くの人と手をつないで、できることからやっていきたい」と決意を述べた。
学力低下やいじめなど、様々な教育問題について「指導の前提として、大人が自らを省みて、若い人たちの手本となる姿勢を示すことが大事」と話した。
さらに昔はお彼岸などで墓参りに行き、過去・現在・未来がつながっていることや、感謝することを自然と教わったが、今はそうした認識が欠けている面があると感じる」といい、
「多くの人の支えで生かされ、多くの人を生かしているという責任感を持つことが、郷土愛や国への愛着、人類愛につながっていくと思う」と強調した




「大人が自らを省みて、若い人たちの手本となる姿勢を示すことが大事」
そんなこと考えてる教師がどのくらいいるんでしょうか

教室を暴力で支配しようとする教師
お気に入りの子と嫌いな子を差別して扱う教師
能力不足で手本を示すこともできないのに、いばりちらす教師
生徒を子供と侮り、気持ちを分かろうとしない教師
ムチと飴で成績を上げることが仕事だと思っている教師
共同体への責任感を説明できない教師

言い出せばキリが無いぞ

内閣官房では、こういう教師を、不適格教師と言うらしい


多くの人の支えで生かされ、多くの人を生かしているという責任感を持つことが、郷土愛や国への愛着、人類愛につながっていくと思う」

やっぱり、格調高い
いいこと言うわ

これこそ、地球規模の共同体意識です
人と人が繋がっている感覚です

この感覚、安部総理は「美しい国」って表現しましたが、美しい、ってその「美しさ」ですね、これは感覚です
あなたの人格に備わった、内部感覚です

なにをもって「美しい」と感じるのか
ぜひ、感じてくださいね

命を懸けるんなら、この感覚に命を懸けたいね

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2006-12-12

赦すということ

つまり、自分に危害を加えた、あるいは、身近な人に危害を加えた人を赦すということですけど

事件のあったのは、学びであるとか、前世の因縁であるとか、まあ、コスモロジーによる物語化は、僕はあまりしっくりきません

赦せないこともあるし、なんでもかんでも赦す必要もないと思います

じゃあ、争いが続くかと言えば、そうなんですけど
現実的には、いつまでも怨み続けるということになりますね

法的であるとか、復讐であるとか、合法非合法含めて、手続きを経て、赦す気持ちに近づくこともあるかもしれませんが、修復できない傷ってものもこの世にはあります

赦しに至る人が高級で、いつまでも怨み続けるのが間違っているという考え方は、これまた、勝手なコスモロジーではあるわけで、人間という存在が、そんなに簡単に気持ちを割り切れるものなら、誰も苦労しません

こういう話が理解できない人もあるかとは思いますが、それは、憎しみってものがまだ分かっていないからだと思うよ


たとえばですね

目の前に、ロープを張ったリングがあって、なぜか、自分がそこに立って、目に前の誰かと殴り合っていると、します
自分からリングから降りることはできない

どうしても負けるわけにいかない状況だとします
たとえば、負ければ、家族全員虐殺されるとか、なんかひどいたとえですけど(^^;)

で、そんな時、一方的にですね、相手を赦してもしゃあないわけです
戦い続けるしかない
おっと、殺しちゃったりですね、勝利もいいですけど、その時は、怒った相手の家族がまたリングに上がってくるって、とんでもないルールだとします

延々と終わりのない戦いをするしかない
カルマだとか、愛だとか、考えてる余裕はありません
是非もなし、って状況です

で、人生ってつまりこういう状況です

リングに立ってるんです
わけもわからず


リングの中にいる限りは赦すも赦さないもありません
死ぬまで戦うしかありません

自分が死ぬのが決着だってことです

これは、例え話ではありますけれど、誰でも、死は免れません
改めて言う必要もないですけど


しかし、相手がリングを降りたらどうでしょうか

紙本著色 羅刹天 長保寺蔵



相手の消滅です
僕が考えている赦しは、この瞬間にしかありません

つまり、追っかけていって、リングの外での乱闘をしない、ってことです
それが、赦し、だと思います



相手が死ぬまで怨み続ける、ってことになっちゃいますが、きれい事ではありませんからね
ほとんどそれしかない、というのが現実ではないですか
執念深いと言えばそうですけど、執念って深いもんなんですよ
どうしようもありません

しかし、死んだら赦してあげる

まあ、これはこれで、死んでも憎しみの再生産をする傾向のある民族もあります(^^;)
それは、しないよ、と

謝ったから赦すんじゃありせん
相手が消滅したら、それで、終わりにして追いかけないってことです


どんなに長い間転生を繰り返しても、憎しみの連鎖は断ち切れません
連鎖が続くようにできているからです
時間と空間を越えて、愛憎の連鎖が続いていくんです

因縁のある世界に住むかぎり、愛憎が尽きることは無いんです
突いたり突かれたり、もう、終わり無く続けるしかありません


それで、僕は、「次元の違う感触」って表現をしてるんですが、「次元の違う」、つまりリングの外の世界があるとしたら、そこに行けば愛憎はなくなります

愛憎や苦悩は自分で計画した学びである、って、なんか最近流行のコスモロジーですけど、リングに立ったままでは、どんなにがんばっても、愛憎や苦悩は切れ目無く襲ってくるのよ
学んでも学んでも、無力じゃないですか
学んで賢くなったつもりでも、殴りかかってこられたら応戦するしかないわけ

愛情深い奉仕活動家が、どろどろの裁判をかかえていたりね、そんなもんよ、人生は

リングの外に出るしかない、というのが、ホントじゃないですか

で、さっきの例え話ですけど、相手がリングを降りることはあっても、自分は降りる事ができません
リングを降りるのは自分が死ぬ時だけです

それでですね、死んだ後の心が、あるとしたらどうでしょう
そんな風に考えたことありますか?

そう、死によって失われることのない心

つまり、「次元の違う感触」

「次元の違う感触」を自分の心にして生きるってことなんですけどね、言いたいのは
いつまでも怨み続けろ、って話じゃないよ(^^;)


あなたが死んだ後に残る「次元の違う感触」の心で、生きろってこと
それが赦しにつながるんじゃないかな

ラベル:

2006-12-10

何の為

願い事書き込みボードにご質問がありました

人の魂は何の為にこの宇宙に存在し、
どこから来てどこに向かうのでしょう。
”神と繋がる”その先にはどのような光が見えるのでしょうか。


各伝統宗教はそれなりの答えを用意していますが、仏教的に言えば

答えは無い

ということになってるようです

禅問答的に言えば
その問いを発した時に、抱えている問題意識に答えようとします

答え
「最近夜更かししすぎのようだから、早寝早起きして、早朝、深呼吸すれば自ずとわかる時がくる」とかね

いえ、ふざけてるんじゃありませんよ
ま、落ち着いてくださいませ(^^)


天台大師 絹本著色 長保寺蔵
くわしくは こちら



それで、僕は今のところどう思っているのかってことですけど

時間という概念を、どう感じるかってことじゃないかと思いますね

実は、「始まりがあって、進歩なり変化なりして、終りがある」という考え方は、近代以後に発達した考え方です

明日は、今日よりも善い、とかね
文明の進歩、発展など

科学技術による生活改善がはっきり目に見えるようになってきてから、未来はもっと善くなるという概念が生まれたんじゃないですか

でも、ほんとのところ、心というか、霊の世界でもいいですけど、時間はありません
空間もありません

観察する主体(自己というか我執なんですけど)がある、この物質世界の相対的な立場から見れば、きのうがあって、明日があるんですが、実は、きのうと今と明日は同時に存在してるってことです

それで

くだらぬ自分---->立派な自分、と、変化ですね

ま、僕は、こういうプロセスを疑ってます

細かく書くと、もっとわかりずらくなるからやめますが(^^;)

すでに、全て整っているんじゃないかと感じてます

これ、専門的には天台本覚論っていうんですが、馬鹿が利口になるんじゃなくて、馬鹿がホントは利口だったって気が付く、ってことです

だから

アホ---->時間の経過---->賢い人 じゃなくて

妄想と執着---->解放---->理解 じゃないですか、本当は


それで、僕のお答えは

Q 人の魂は何の為にこの宇宙に存在するのか
始まりも終わりもなく、存在を続けています
無目的、無意味という殻を作って閉じこもることもできるし、意味を創造することもできます
大げさに言えば、宇宙がこれからどうなるかは、あなたの自由な意志しだいです
Q どこから来てどこに向かうのか
どこからも来ず、どこにも行きません
笑顔を探し続けます
Q ”神と繋がる”その先にはどのような光が見えるのか
もうすでに繋がっています
悪事の後ろめたさ、深い良心の叫び
微笑みの感触
すべて、繋がっているからあるのではないですか

ラベル:

2006-12-07

コスモロジーの再構築

また、ややこしい話ですけど

神秘体験とか、霊感による普通の人より拡張した感覚、など心霊的体験ですね
これは、結局だれとも分かち合うことの出来ない体験です

何を感じたかは、本人しか知りません

「きのうのサッカーの試合がどうたらこうたら・・」などと話題にすることができないのです

専門的には変成意識状態と言います
ラリってる、神懸かり、禅定なども変成意識状態に含めるようです



「宗教クライシス」上田紀行著 岩波書店

神話的コスモロジーと深層意識のイメージとの一体化は、共同体が保持しているコスモロジーと深層意識の一体化であるから、「絶対的な私」の感覚を強烈に持ちながら、共同体とも絶対的なつながりを持っているという感覚へわれわれを開いていく。しかし、コスモロジーの行き先はあらかじめ決められているため、盲信へ閉じていく性格を持っている。

深層意識でのイメージはコスモロジーがあらかじめなければ、体験とならず、他者とも共有できない。
宗教体験の核心には、神話的コスモロジーが必要である。コスモロジーが宗教体験を可能にし、人間どうしの根元的なつながりを生み出すが、ひとつの限定された物語に収束されてしまうが故に、他の宗教や文化における根元的なつながりを理解できないのである。


つまり、自分の体験を、ある種の世界観(コスモロジー)の中の出来事として意義付けます

たとえば
「恋人と別れなければならないのは、前世から自分で計画していた学びである」などと、意味のある行為として評価します
これは、別の文脈になれば
「恋人と別れなければならないのは、前世で人を裏切ったカルマがあるからだ」にもなれば
「恋人と別れなければならないのは、神の意志による人類覚醒計画の準備だ」にもなるし
「恋人と別れなければならないのは、彼にもっと素晴らしい人があらわれたので、私が捨てられた」に落ち着くこともある、と

各種宗教は、大元に開祖的人物がいるわけですが、時間とともにコスモロジーが発展していき、ややこしい物語、教理、哲学になります
コスモロジー自体の辻褄あわせが必要になるのと、他の文脈のコスモロジーを包摂し取り込んで発展するからです

物理学の大統一理論のように、宇宙全てを一元的に説明するような考え方にたどり着こうとします

それが、困るのは、狂信へと人々を導く可能性を秘めているからです

全ては神の思し召しである(この程度なら、かわいいのですが)
神の意志は、教祖様だけが知っている(あやしいぞ)
教祖様の命令には絶対服従しなければならない(あれれ)
教祖様が死を望めば、ためらわずに殺す(あらら)


妙法蓮華経要解 高麗(13世紀) 長保寺蔵


僕は常々、不思議な経験を通じて支配し依存させようすることを、拝み屋的なやりかたで、警戒しなければならないと言っているのですが、とどのつまり、自分を失えば狂信的なカルトになるからです

占い師は、あなたの運命を好転させる方法を知っているのは自分だけだと言い
ヒーラーは、自分だけが、治療方法を知っていると言い
教祖様は、自分だけが、悪因縁から解放される方法を知っていると言います

これは、背後に、執着の強い霊あるいは霊団がいて、物質世界への通路として、彼らに憑依し手先として使役している場合もあります
多いのは、単純な詐欺ですけど


強い霊団が背後にあると、天使なら天使、天狗なら天狗、猫人間なら猫人間、など、同じイメージを見て、つまり、似通った神秘体験をします
占いは、当たります
ヒーリングで病気が治ります
それは、しかし、特定の霊団が自分たちに都合のいいように使役するため、仕組んでいる場合があるということです

手口は色々ですが、一般的には
マッチポンプで
自分で火をつけて、それを消して、どうだ偉いだろう、とまあ、単純ですが、だまされますよ

しろうとさんは、なにか客観的普遍的なものを神秘体験によって知り得たと思いこみます

特定のイメージは、ほとんど、特定の個人へ収斂します
つまり、カルトの教祖へ行き着きます

カルトの教祖の変成意識状態が、あなたの変成意識状態を再構築しているのです
これを、洗脳ともいいます

たとえば
教祖さんの目を見たら、ピカーっと光ったなんてのは、ま、キツネ系とか
それはそれで不思議ですけど、だから教祖さんが神様より偉いってことにはならんじゃん

どことは言いませんが、多いぞ
特に最近は、外国製が多い


言っておきますが
自分の運命を好転させるのは、自分の努力だけです
自分の病気を治すのは、最終的には本人の自然治癒力です
悪因縁から解放されるのは、自分の心がけ次第です

助け合い、励ましあいはあっても、最後は自分です


仏教は、冷たいようですが
自灯明、法灯明と言って
自分と、自然の法則をよりどころにしよう、と言ってます

誰かに帰依しろ、と言うのは鎌倉仏教からなんです
大衆救済の方便のつもりでしょ
僕は、あまり感心しませんが

イスラムでも、神に帰依するのを、誰か特定の宗教指導者に帰依するのに、すり替えた奴がいるんだよ
これは、かなりのワルだと思うね

ラベル:

2006-12-05

悪意のある霊への対処法

悪意のある霊への対処方法なんですけど

まあ、僕はたいしたことないんで、参考にならんかもしれないけど(^^;)


基本は

自分が、神社の祈祷札状態になることです

ま、理論的には


祈祷札には、神の力が宿ります
依り代ともいいますね
で、悪い奴らは寄ってこれません

で、自分の心の状態が、祈祷札のように、神と繋がっている状態であれば、自分も周囲の人もよけいな影響を受けずに済みます

各種結界や祈祷札集め、石やら塩、など、ある程度効果はありますが、一番本質的で根本的な解決策は、自分自身の心のパワーです

神社やお寺でもらってくる、しゃもじや、ペラペラの紙札にも力があるんですから、心にパワーがあってもなんら不思議はありません

僕的には、諸々のグッズは、心を、なんと言うか、応援し励ますものであって、グッズに依存しても、問題を先送りにするだけで、解決したことにはならないと考えています


日天 紙本著色 桃山時代 長保寺蔵


具体的には、まあ、いろんなやり方があるってことになってきます

理論的には
E=hυ
で、υ=∞ が E=∞ ですから
もっとも振動数が大きい、無限大にちかい振動数の存在と繋がるのがよいということになります

ちっとも具体的じゃありませんが(^^;)

で、仏教はどう考えているかというと

いろいろな菩薩や護法善神は、夜空の月と満天の星のように、さざめき輝き、清らかに衆生を助け救っている
けれど、朝になり、太陽が出ると、月や星はそのまま天にあるが、輝きは見えなくなり日の光だけになる

その太陽が密教的に神格化したのが一字金輪仏頂如来である


と、わかりにくいですが(^^;)

つまり、太陽です
というか、太陽が持っている、空にある光の中で隔絶した輝きがある、次元の違うパワーのイメージです

神道などでも、いろいろ言うようですが

朝日を浴びることをお薦めします
基本です
で、ただ浴びるのではなく、ニッコリ微笑みながら浴びたほうが効果があります
「太陽の強さと優しさがふりそそぐーーー」ってイメージします


やっと具体的になった(^^;)

実は、実際に朝日を浴びなくても、はっきりイメージすれば、それで効果があります
まあ、ほんとに朝日を浴びたほうがやりやすいですけど
真昼の太陽でもいいです
より、強さが強調されます

これが、仏でも神でもいいんですが、信仰的な存在でも効果がありますが、もっとも直接的で強いイメージは太陽です
つまり、太陽に比べれば他のものは作り話的な存在です



守護霊とか、氏神様とか、諸々の親切な存在に頼むのは、僕的には、υ=∞ でなくて

守護霊vs悪霊
氏神様vs悪霊

で、相対的な強さでしかありません
実際、勝ったり負けたりすると思うよ

それと、他者に依存し、自分で問題解決する力がなくなります
喉が渇いたから、便所に行きたいからと言って、誰かに頼んで代わってもらうことはできません
自分で解決する力を養うことが、最終的には必要です
それができるまで、手伝ってもらうことくらいはできても、いつまでも、甘えていることはできません

でもって、普通の人間は、すぐに堕落し、俗化します(^^;)
心のパワーには強弱の波があります
いつも強い状態に保つことはなかなか出来ません

それで、昔ながらの修行とか鍛錬とかも、意味があるとは思いますよ

理想的には、悪意のある霊を、浄化し、執着と妄想から解放してあげるのがいいんですが、その前提が、心のパワーです

ほんとに悪い奴は、浄化されそうになると、逃げるよ
サッとね
悪態をつく場合も多い
ごちゃごちゃ言いながら逃げる

ま、いちいち、かまってらんないですから、とりあえず、心のパワーですね

ラベル:

2006-11-27

宇宙じゃ常識だぜ

世界の全ては「変化し続ける心」によって出来ている
感性と理性  Terra Free Talk


物と心を分けて考える二元論だからわからなくなるんじゃないの

電子や光は粒子であって波動であるんですが、観察されるまでは、波動なんです
観察すると粒子として認識される

だから、波が伝わるのは、心の中なんですよ
観察が粒子を創造してるんです

分かりにくく言えば、この世は霊界の一部なんです

Quantum Sense理論がわからんと宇宙はわからんよ









いくらでもあるよ
こちら

ラベル:

2006-11-26

量子論の本

Quantum Sense理論ですけど
まだ、こだわってます(^^;)

なんのことか、わかりにくいし、ま、興味もあまりないかとは思いますが
ロジックてのは、そもそもそんなもんです
ですけど、ロジックがあれば、一歩一歩進むことができるようになります
修正すべき間違いも、探求すべき問題もはっきりすることができます


で、参考文献などのご紹介をしときます
詳しくはこちら



「量子論」を楽しむ本 佐藤勝彦 PHP文庫

入門書です
量子論はそもそもわかりにくいです
で、一番わかりやすい入門書でしょうね


Newton別冊 みるみる理解できる量子論 ニュートンムック 監修和田純夫
図解で解説した量子論です
簡単に説明しようとしすぎて、わかりにくくなる、と言う典型的な例です
しかし、絵はきれいですので、時々見るのにいいかも


「量子論」を楽しむ本、を一読してから、僕のQuantum Sense理論を読むと、少しは何を言っているかわかります

で、それから



死後の世界を突きとめた量子力学 コンノケンイチ 徳間書店
なんか、すごい題名ですけど、内容は、もっとも高度です
僕の理論と一番近い内容と言ってもよい

第1章 意識が現実を創造する
第2章 死後の世界とクロスする量子力学
第3章 死後の世界はこうして実在している
第4章 量子力学の反乱 科学の自然解釈は大変貌
第5章 現代物理の死角はアインシュタインにあり
第6章 宇宙の正体はホログラム 光と闇の迷宮
第7章 とぐろを巻いた蛇と黄泉の国への旅


ただ、いきなり読んでも、なにを言ってるかわかりません
題名に惑わされないように
僕のQuantum Sense理論を読んでからこの本を読んだら、言っていることが少しはわかるかも

で、内容について言うと、この人はエーテルを再評価するって立場ですけど
僕的には、エーテルって、つまり、意識です、ここがちょっと著者と違います


コンノケンイチさんは、他にも本を書いてますが、読んでみたいですね
文章の書き方が大げさな感じもしますが、編集者にそそのかされたんでしょう
内容は、僕的には、まったくまともです
非常にロジカルです

どうかと思う部分もありますが、霊能者本や精神世界の本のなかで比べれば、推薦することのできる内容です

EPRパラドックスの崩壊が、大変な事件だったのが分かります
物理学からいうと、アインシュタインの否定ですから、ホーキング宇宙も成り立たなくなり、ビックバンもでたらめになってしまいます
で、それに変わる概念も提示してますが、その部分は、どんなもんでしょう、という感じですが、前半は、まともです

別に読まなくてもいいです(^^;)
僕のQuantum Sense理論で十分ですから

ラベル:

2006-11-23

カルマ

業とか因果応報って仏教が作った概念ですけど、今風にはカルマってことでスピ系でもよく使われるようになった
キリスト教とかイスラムなんかは、宇宙を作ったのも、人生で困難にであうのも神の意志だそうで、カルマは言わないんだよね

カルマの語源は、サンスクリット語で、「行為」という意味で、よい「行為」にはよい結果、悪い「行為」には悪い結果がある、という使われ方をしてきた

これが、前世のカルマが、今の人生に影響を与えるというのは、つまり、一つの理論的立場であって、実際どうかというと、はっきり決着がついた問題でもないと思うよ

これは、僕はQuantum Sense理論で言ってるんだけど、つまり、心は自由なわけ

どんなに現実に縛られていても、心だけはなんの制約も受けずに自由に妄想なり空想なり理想なりを追求できるんです
たとえば、授業中にぼんやりと昨日のテレビ番組のことを考える、なんてのは、普通のことでしょう

それで、行為の前には「何をしようか」という意志の決定プロセスがあるわけですから
カルマ--->心--->カルマ
という連鎖なのであって、いきなり、「悪いカルマ」の次が「悪い結果」に直結してるわじゃないのよ

で、「心」がですね、もっていきかたで救いにもなるし、もっと悪化させることにもなると


法華経 平安後期(12世紀)長保寺蔵

よく、障害をもって生まれるのは、高度な魂が選択したって、まあ、僕に言わせれば作り話をする人もあるようです
しかし、全くの偶然でそうなることのほうが多いんじゃないかと考えてます、僕は
そして、大きな愛を、自分も、周囲の人達も持たなければ、乗り越えていけないのではないですか

なんで、なんでもかんでも、前世のカルマや、計画やらのせいにしたがるんだろうね

偶発的な事件など、いくらでもあるんじゃないの

ただし、前世の影響、あるいは計画が無い、と言ってるんじゃありません
なんでもかんでも、単純に考えるなと言ってるんです

「自由」というものが存在する、と考えるならば、偶発的な事件がいくらでも起こり得るってことでいいんじゃないですか


機械的因果応報理論、はですね、不確定性理論で、物理学的にも否定されていることだと思うよ


いろいろ先回りして取り越し苦労する人のために付け加えときますが

とんでもない悪いこと---->反省のチャンス----->結果

なのであって、お目こぼしやら、いつの間にかウヤムヤになるってことじゃないと思うよ
反省がなければ、ストレートに悪い結果だと思うよ

それと
なんの原因か分からず、いきなり、善いこと、悪いこと、が起こる理不尽なのが人生ではないですかね
何故だと言うから、適当な理由を作り出したりするんでしょう
前世の業とか、計画とか、誰かの意志とか
神話的物語を創作して現在の状況を合理化するのだけど、もともと、不合理なんですよ



仏教の寓話にありますが

矢にあたって苦しんでいる人が、どうしてもどこから矢が飛んできたか知りたいと思っている
誰が何故、矢を放ったのか知るまでは、ささった矢を抜きたくないと言う
それを、とにかく矢を抜くのが先で、何故、どこから、誰がなど、考えていたら死んでしまうぞ
というのが、仏様の教えです

ラベル:

2006-10-13

祈り






ParaFla!にて作成
あんまり大きなファイルにならないよう、これでも小さくしたつもりです(汗)



どこと繋がるかが大事だよー
ちゃんと繋がると、世界のすべてが繋がった感じになるよー

というメッセージのつもり・・・

一番やさしい光と繋がってくださいね
みんなの幸せをイメージするのがコツかな

難しく言うと
今自分の心の中に、光が来てくれているって信じてくださいね
あれこれ、おねだりするのと違いますよ

ラベル:

2006-10-12

Life of quantum sense







Life of quantum sense

僕らの心は
感じあい、影響しあい
時空の無い世界の中で繋がっている

鏡のように照らしあい
他の心を傷つけると、それを写し取り、自分の心が傷つく
他の心を喜ばせると、それを写し取り、自分もうれしい

自由な心は、妄想と執着をつくり
救いの可能性もつくりだす

延々と終わりのない応酬が続く

かすかな「慈愛の感触」に導かれながら、長い長い旅を続け
喜びや多くの困難を通じて「慈愛の心」を学ぶ

そして、「次元の違う感触」に出会ったとき
全てを理解し、全てが赦される

いつの日か、学びを終えた光になって、光の中で生きる


 

ラベル:

2006-10-11

E=hυ


なんのこっちゃ、ですけど

光子のエネルギーの式なんですけど
Eは光子のエネルギー、υは光の振動数、hはプランク定数です
光の振動数が大きくなると、光のエネルギーも比例して大きくなります

E=hυ

なんか、赤より紫のほうがエネルギーが高いってことなのかな、不思議ですね
υ=∞となるとE=∞ですねー

このへんが、「次元の違う感触」の秘密かもですね



ヒプノセラピーとか誘導瞑想って、意図的に夢を外部からコントロールする技術ですね
つまり、クォンタムセンスな技術ですよ
でも、盲腸の手術で、お腹の中にハサミやガーゼを忘れてきちゃうような医療ミスがあるのですから、これも、まあ、気をつけてする必要はあるでしょうね

祈り、とかアファメーションって、マトリックスとのコンタクトですね
これもクォンタムセンスな技術といえばいえますね
密教の三密加持なんか、まさに、マトリックスと繋がる技術です
聖典の読誦なんてもの、マトリックスと繋がる方法ですね

なんか、こうやって図示すると、すっごく簡単に見えるんだけどなー

υ=∞の部分さえわかれば、単純なことなんじゃないですか

ラベル:

2006-10-10

Quantum Sense

唯識論において、量子論における二重スリット実験のような、解釈の出発点になるような紛れもない事実が観察されるようなことがあるだろうか、と考えてみたら、日頃寝てるときに見る、夢がそうかもしれないと思えてきました
五感を消去した状態になれば、「もあもあ」だけになるわけですからね。

五感が消去された状態、つまり寝ている時の夢は、死後の世界の疑似体験でしょうね
ただ、脳は機能してるわけで、「もあもあ」を作ることはやめてないので、疑似体験ではあっても、死後の世界と同じにはなりませんけどね

まあ、臨死体験なんかもいい例にはなりますね
でも、夢の方が身近で一般的ですね

なぜ夢を見るのか?
今でも、よくわかっていないらしいですね
やはり、夢はSuperpositionの入り口でしょうね


夢の中では、ああしたいこうしたいといった意志による行為はほとんどありません
どこか、同じことを延々と繰り返す霊の行動にも似てます
霊になってさまようのは、終わりのないエンドレスの夢を繰り返し見るようなものなのかもしれませんね
夢をほとんど覚えていないのも、前世の記憶がないのと似てるかなー

不思議な夢ってけっこうあるしね

むしろ、明晰夢など、夢の中の行動を自由にコントロールできる人は、かなり霊能力があると考えていいと思います
ひょっとして、死んだら霊界で神様みたいに振る舞えるかもですね

そう言えば、「夢記」を書き続けた明恵は華厳宗の僧です



感覚器官の感受性が広がった状態が霊能力ですね
仏教には五神通があります
人間って不思議ですから、想像もできないような感覚もあるかもですね

感覚器官の感度があがっても「もあもあ」は作り続けられますから、霊感のあるなしと、人格は別のことです
霊感がなくても「次元の違う感触」は感じられます。そうでなければ、人間の尊厳は支えられませんよ


さてと

今までこうした話題を
トランスパーソナル スピリチュアル ソウルミラーネットワークと命名してたわけですけど、改めます

Quantum Sense Mechanics 量子感覚論

といたします

「クォンタムセンス」、どお、「霊感」とか「神通」よりいい感じじゃないですか?
スピリチュアルって言いにくいんで嫌いなんです
単なる気のせいとか思いこみとは違うからね、物理学との接点はありますよ

量子論と相対性理論の融合から、宇宙の森羅万象を説明する大統一理論が導きだされるようなことを言いますが、クォンタムセンスのほうが重要だよ
だって、人間の生死が直接かかわる理論ですからね

ラベル:

2006-10-09


ところで、物質は粒子であり波動でもあります
そして、Superpositionであり、あいまいな存在です

霊界と生死ある世界を分けているのは「観察」じゃないかと考えたりしてます
観察によって、Superpositionが実体化されます
ゆらぎがあるから、生死のある「見る者」が生まれるんでしょうね
そして、苦痛が生まれ、救いも生まれる

Superpositionが霊界で、観察する、見る者と見られる物のある世界が生死のある世界です

観察結果は確立論的に偶然に支配されますから、常に不確定な未来が描かれます
「自由」がある、と言うこともできます

ということは、Superpositionである霊界では、ソウルミラーの変化は顕在化することはできなくて、観察がある生死の世界にソウルミラーが変化する可能性があるということになります


わかりやすく言えば
霊界では魂の進歩が出来なくて、人間界に転生してきて初めて、修行することができます
進歩するか、落っこちるか、人間界での修行次第です
ですから、人間としてどのように生きるのかは極めて重要だということになってきます


それで、弘法大師の「声字実相義」になるんですけど
量子論的には物質は粒子であり波動です。声(波動)であり字(粒子)です
それが、言語になっています

五大にみな響あり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身はこれ実相なり

五大 地水火風空
十界 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏
六塵 色・声・香・味・触・法

マトリックスも(-∞=0=+∞)も粒子であり波動であり言語です

「もあもあ」も「ソウルミラーネットワーク」も「次元の違う感触」も、シームレスに繋がっています
波動が違うだけなんです

Superpositionから粒子になると、生死のある世界になります
Superpositionでは全てがあいまいですから、生死のある粒子の世界に変化の可能性があります

それは、波動の変化でもあります

波動が、ある臨界点を越えると、「次元の違う感触」となって、ソウルミラーネットワークから切り離されるんじゃないでしょうか

密教的に言うと、生死ある者達は、ソウルミラーネットワークの中の善悪正邪損得よりも、「次元の違う感触」に近づくほうが意義深いことです
「次元の違う感触」の波動に近づくことが、つまり、霊格の向上です
霊格が向上して波動が臨界点を越えると、ソウルミラーネットワークの輪廻から抜け出して「次元の違う感触」の仲間入りをします
輪廻から抜けでないで、苦しむ「もあもあ」を助ける存在を、仏教では菩薩といいます

と、ここまで理解すれば、あとは
なるべく善いことをしようと心がけて暮らすだけです

ああ、それと、右上にある「光の瞑想」をお薦めしますよ
「次元の違う感触」に出会ってくださいね

ラベル:

涅槃の感触



これつまり
-∞=0=+∞ ですから

一神教とか言いますけど、1でも2でも3でも、なんとでも言えばいいんです。数がないんですから
指さす指の数だけ、神話や教義がある、と

神と呼んでも、大日如来と呼んでも、なんと呼んでも、どれも正しく、呼ばれた数だけの表情を見せる、と
そして、名前を付けてしまうと、本物ではなく、名前によって限定されたイメージになってしまいます
これ、仏教では果分不可説って言うんですけど、密教では大日如来って言ってしまうんですね。ま、いいような、悪いような。分かりやすいけど、誤解も招きますね

仏教的には、学びを終えると、この(-∞=0=+∞)になります
涅槃って、そういう意味です
それで、同化して一つになるかと言うと、とにかく数がありませんから、個性を保ったまま、同化します。一即多、多即一です
-∞=1=2=3=0=+∞ です
釈迦如来とか阿弥陀如来、薬師如来いろいろあります
三千仏名経とかありますから、ほとんど、なんぼでもいます



でもって、これが難しいのは、指ささないことには説明できないわけです
困ったもんです

それで、しょうがないんで、僕は、感触っていつも言ってるわけです
これは、ですから、菩薩とか巷の神々の感触とは次元が違う感触です

それで、この感触を感じるには、なんの条件もありません
時間と空間のない世界から、常に(と言うと時間的表現になってしまいますが)照らしてるんですから

海辺で日光浴をするのに、犬でも猫でも人間でも、いい奴でも、いやな奴でも、関係なく、お日様が照らすのといっしょです



善悪正邪損得はネットワークの中のことで、延々と突いたり引いたりしなければなりません
で、本当の救いは、ネットワークの外から来るんです

それで、仏教では如来、来るが如きもの(如きとでも言わないと、意味が限定されてしまいますから)、と言い習わしてるわけです
キリスト教的には啓示です

第九住心と第十住心を、画然と隔てているのは、啓示があるかないか、です
努力の積み重ねではありません
来るんです


これが、妄想と執着とカルマにがんじがらめになったソウルミラーが救われる仕掛けです
ごちゃごちゃと手術みたいなことをする必要はありません

スッキリ、照らされて、救われます

簡単でしょ


続くかなー・・・

ラベル:

意識の根源

感じられる前の世界には「もあもあ」が沢山浮遊していて、それが、照らし合い感応しあっている、と
で、時間も空間もゆらいでいて、生と死が重なり合い共存している。情報は光速を越えた早さで伝達される

とてつもなく親切で賢い「もあもあ」さんもいるし、修行中の「もあもあ」さんも沢山いる
脱線したのに気がつかない、いやな奴もいる、と
菩薩とか、神話に登場する神様とか、悪魔とかですね

とまあ、そんなところなんですけれど、それだけじゃないんです


天台大師は華厳を究極のものとは考えてませんでした

また、弘法大師の十住心論では、十番目が秘密荘厳心で密教なんですけれど、華厳は九番目なんです。やはり究極のものではないんです

ソウルミラーネットワークのまだ、その先があるんです

ムフフ



実は、僕の大学の卒業論文は、弘法大師の第九住心と第十住心の境目がどうなっているのかというのが研究対象なんです
論文は学部生のレベルですからたいしたもんじゃないけど、昔からものすごく高度な研究がなされてる事だけはわかりました

学会(がくえ)というんですけど、高野山で行われている密教教学の議論ですね
いまも形ばかりは残っていますけど、江戸時代の一時期、論争に負けたら山を降りなければならないほど激烈な議論がおこなわれました。いろいろ調べましたけど、もう、全く凄い量の研究が残されてます
今もチベット仏教では問答議論が重視されていて、いいことだと思いますね。坊さんの質が高くなるね



十住心論では、第九住心を華厳に配当して、極無自性心としているんですが、その根拠となる経典を各種列挙するなかに守護国界主陀羅尼経という経典があって、そのなかで、[口奄]オン字観の実習方法が説かれています
このオンがですね、ヴェーダなどでも説かれる聖音で、ウパニシャッドでは最高の意義を与えられてます。それが、密教経典の中で、国王を守護する陀羅尼として再生してるわけです。ですけれど、それは究極の成就法ではなくて、第九住心に配当してます
一般に金剛頂経系の密教経典では五相成身観によっって悉地を成就する方法が説かれますが、いちばん最初の通達菩提心の直前が第九住心なんですね
五相成身観と、その前の第九住心に画然とした境目があります
弘法大師的にはですね、そういうことです

天台教学では
お釈迦様が、生涯で説法を始めた一番最初に悟りの内容をそのまま説いたのが華厳経とされてます。これは、天台大師が、いろいろ経典の内容を調べて、説かれた場所と順番を決めていく分類作業をしてみてわかったことです。その結果、法華経に、他の経典にない極めて特異な教説があることがわかり、華厳経などを法華経の前段階の経典であると位置づけました




ソウルミラーネットワークを越えた、意識の源があるんです

それが、キリスト、アッラー、大日如来、久遠仏などと呼ばれる存在です

時間と空間がないところにいるんだから、無始無終でいたるところに遍満してます
数もありませんから、ゼロであり∞です
生死がないから、なんなんでしょう、永遠であると言っておきます

ソウルミラーが浮かぶ空間であり、ソウルミラーを照らす光です
ソウルミラーを妄想と執着から解放する力です
そしてソウルミラーの意識の根源です

空間であり、光であり、力であり、意識の根源です


続く

ラベル:

2006-10-07

マトリックス

理論物理学上の、観察される前の量子という考え方が、感覚器官によって認識される前の世界の姿を想像する示唆を与えてくれます

僕は、量子論をそのまま人間の心の働きに応用するのには懐疑的で、たまたま、二重スリット実験の観察結果を辻褄あわせるために導きだされた計算上の概念ですから、どうにも、実際に人が生きたり死んだりにつながるようには思えません

しかしながら、人間の生死は、妄想とか考え方の立場とかではなく、現実ですから、現実世界を説明しようとする物理学とどこかに接点があると考えざるを得ません

Superpositionの概念など、いい例で、仏教が示唆を与えられることもあるでしょうが、また、物理学が仏教から示唆をあたえられることもあるでしょう
理論物理学を追求していくと、感じられる前の世界の姿の片鱗が明らかにされていくかもしれませんね


仏教は、三界唯心と言って、世界のすべては心の中で起こっているという唯心論が考え方の基本になっています。これは主に華厳経に説かれています
仏教では唯識論の研究も盛んにおこなわれました

三界唯一心 心外無別法
心佛及衆生 是三無差別 (正法眼蔵 道元)

唯識論自体が非常に歴史のある考え方で、伝統のなかで色々な決めごとがあって、今に至っては、議論のための議論のような部分が多くなってしまいました
ややこしく考えると、心と識は違うとか

で、まあ、僕なりに要約して言えば


白い矢印が、感じられる前の世界を感覚器官で感じてるところです
で、仏頭が脳で、イメージを作って、「もあもあ」と、自分なりの世界を感じます
イメージを上手に作れなければ、妄想になります
イメージを現実だと思いこむと執着になります
(だから、今、のぞき込んでらっしゃるモニターも、あなたの心の中に作られた「もあもあ」ですよ)

感じられる前の世界はSuperpositionで、過去と未来、右と左、が重ね合わさって共存しています。光速以上の早さで情報が伝達される世界です。
時間と空間は不確定性原理によって、あいまいな状態になっています。この、あいまいさが、実は、「自由」の根源になっているのかもしれません
不確定性原理は、実際に応用もされていて、たとえば走査型トンネル顕微鏡など実用化されてますから、勝手な屁理屈じゃありません

で、「もあもあ」のイメージは、頭の数だけあります
しかし、感じられる前の世界は、「もあもあ」がネットワークになって繋がっている状態ですから、実は一つしかありません
これは、華厳的には無尽重々縁起です
ですから、エヴェレットの多世界解釈は、行き詰まって、ノイマンの「量子力学の数学的基礎」(序文は湯川秀樹が書いてます)あたりからいかないと大統一理論はできないんじゃないかと考えてます


ネットワークは一つですから、イメージが各人別々に作られても、共同体やら、協力やら、仲間やら、お友達やら、普通に暮らしていくことができます
画一的な教義を信じ込ませる必要はなくて、自由にまかせても、仲良くやっていくことが可能です
ただし「もあもあ」がしっかりしていれば、ですけど


ある禅宗の坊さんが、悟りを開いて、あまりの嬉しさに、表に飛び出して叫んだそうです
「雲くーん、君は僕だなー 風くーん、僕は君だなー」


因果応報とか言いますが、つまりは、ネットワークが繋がっていて一つだから、自分のしたことが自分に返ってくるのです
便宜的に、写し取ってと表現しましたが、実は、写し取るもなにも、
あなたは私で、私はあなた、なのです

仏頭がなくなるのが死です
死んでも、執着によってつくられたイメージが「もあもあ」と浮遊し続けます
これが心霊ということになります
仏教的には、霊界を旅する心霊は、いまだ執着を離れないでいる心です
脳がないのですから、心霊は、新たなイメージを作ることができません
それで、同じような繰り言を延々と繰り返すのです
心霊のいろいろな特徴は、これで、おおかた説明がつきます
執着から離れる力を付与するのが供養、ということになってきます
仏教的には「己を忘れて(執着を離れ)他を利する(堂々巡りの苦痛から解放する)」心ですね、つまり慈悲です

で、心霊は感じる前の世界から切り離されていますから、消滅する事がありません
長い旅路のはてに、究極的には、感じられる前の世界とまったくそっくりな存在になります
しかしながら、そこまでに至る歴史は刻まれています

何回も言いますが
感性と理性の統合、慈悲(感性)と智慧(理性)の統合、「見る者・理」と「見られる物・智」の統合、執着を棄て思考停止し感覚遮断した状態が、感じられる前の世界と「もあもあ」が一致した状態です

それで、つまり、神は増え続けます

見る者と見られる物の分離が、「もあもあ」の始まりで、時間と空間の開始点です
不確定性原理で説明されるような、ゆらぎ、あいまいさ、が分離の原因かなー、とか考えてます
分離する必然性があるのですから、いったん分離したら消滅しません


でもって
この矢印が太い人が霊能者なのだと思います。生命進化の必然です。仏教的には五神通です
ただーし
矢印が太くても「もあもあ」は「もあもあ」です。妄想と執着が、自動的に作られます。だから、霊能力がいくらあっても、イメージの正しさとは関係ありません
だから、正しいイメージをもつには努力が必要です
イメージは、教育や訓練で、正しく保つことができます。努力が報われる可能性が開かれています。転生による学習効果もあるでしょうけど、妄想は自動生成しますから、いずれにしても、努力しなければうまくいかないでしょうね


伝統宗教の教義や世界観は、感じられる前の世界をイメージ化した、「もあもあ」です。洗練されてない、宗教や神秘的教義には、妄想がたくさん含まれてます

正しいイメージをもち、「もあもあ」を感じられる前の世界に近づける努力が必要なんですね

ああ、それで、マトリックスですけど、つまり、感じられる前の世界のことになりますね


続く

ラベル:

感じられる前の世界

ペンローズの三角形


僕はなにも、無理矢理に量子論を仏教に結びつけようというのじゃないんですけど、どうも、非常に興味深いのが、Superpositionなんです



二重スリット実験という、量子論だけでなく物理学すべてにとって最も基本的な実験があります。物理学に詳しい人は説明いらないと思いますけど
レーザービームを照射して、二本のスリットを通すと、光の波動としての性質によって干渉作用がおこり、縞模様が観察されます
これを、電子銃で電子を一つずつ発射して二本のスリットを通すと、一つの電子なのに波としての性質により、やはり干渉作用が観察されるのです

英語のサイトですけど面白いので見てください
こちら
画像の緑のボタンをクリックするとレーザーが発射されます
次のページは電子が干渉する様子です

つまり、電子は粒であると同時に、波でもあることが観察によって確認されているのです

この現象をどのように解釈するかが、物理学上の大問題で、いまだに完全な決着はついていません

おおまかに言うと
コペンハーゲン解釈
エヴェレットの多世界解釈
の二つに分かれています

この二つが、量子論の面白さの核心でもあるのです

コペンハーゲン解釈では、電子の位置は、観察されないと決定できません
観察されるまでは、一個の電子は「ある場所にいる状態」と「別の場所にいる状態」が重なりあっていると考えます
重なりあっている、のを英訳するとSuperpositionとなります

エヴェレットの多世界解釈では、観察者の数だけ世界があると考えます。パラレルワールドですね
SF的な感じですが、物理学の世界では、コペンハーゲン解釈が主流として受け入れられています

また、電子は「位置を決めようとすると速度が決まらず、速度を決めようとすると位置を決めることができない」という不確定性原理によって、必ず、あいまいにしか捉えることができないことが知られています

アインシュタインは、EPRパラドックスを主張して、量子論のあいまいさを批判したのですが、ベルの実験によって、光速をこえた情報伝達があることが証明されました

量子論的には
月は見たからそこにあり、見ていない時はそこにいない
ということになります

コペンハーゲン解釈によれば、電子の位置がどこか決まるのは、シュレーディンガー方程式によって、観察した瞬間に確率論的に決定されることになっています
しかしながら、数学的に計算すると、物質の世界では電子の位置が決定できないことが証明されました
それを、証明したのが、今のコンピューターの原理を発明したノイマンです
マッドサイエンティストなどと呼ばれたりしますが、なかなか画期的なのは
「電子の位置が決まるのは、人間の意識の中である」と結論づけたことです
まあ、これは、今のところ物理学の主流ではありませんが、量子論と意識とのつながりが完全に否定されたわけでもなく、様々な研究が今も続いています



と、これは前置きです

言いたいのは、観察される前の状態、「ここである状態と、あそこである状態」が共存して重なりあっている、Superpositionです

光速をこえた情報伝達がSuperpositionでは行われるのです


色即是空のかなた

僕らは感覚器官がとらえた世界の中に閉じこめられて暮らしている

見えた物を信じたり疑ったり、聞こえた物を信じたり疑ったり
暑さ寒さを感じ、美味しいまずいを感じ
感じられる物が世界の全てだと思いこんでいる

目で見る前の光
耳で聞く前の音
舌で感じる前の味
皮膚で感じる前の感触
それが、あなたというフィルターを通さない、ありのままの真実

自己の拡大は進むべき道ではない
感覚器官の中に閉じこめられている現実が変わるわけではない

自己否定も道ではない
めちゃくちゃで、バラバラの自分になるだけ

感覚器官に写し出される前の、ありのままの世界
世界の本当の姿を知っている自分になるのが、道

あなたは、すでにその道を完成した存在を知っていますか
全く完全に我執がなく、それでいて個性があり生命に満ちあふれた存在

五神通と常・楽・我・浄の境地
大慈悲の感触


感覚器官に写し出される前の、ありのままの世界
感じられる前の世界、それこそがSuperpositionなのです

続く

ラベル:

2006-10-05

Superposition


今、このブログを一日600人以上の人が毎日見ているみたいです
なんか、カウンター間違ってるんじゃないかと思うんですけど、どうもいろんな人が来てる・・・・

ありがとうございます

スピリチュアルエンターテイメントというか、どうでもいい、興味本位の人が多いように感じた時期もありますが、どうなんですかね
目の肥えた読者になってくださいね


僕は坊さんなって30年近くになりますけど、考えてみると、毎日不思議の連続で、それも朝から晩まで、仕事ですからね
プロですよ

それで、不思議なことというのは、やはり、感覚の世界のことなんです、経験してる人にとっては、それこそ絶対的な真実ですけど、経験しない人は、全く理解できません
それで、自分の実感だけを根拠に、ああだこうだ言っても、まったくかみ合わないんです



平安時代、ものすごく、加持祈祷やまじないが、まあ、全盛期で、迷信なんて言葉も無かった時代で、科学的なんてことも無い時代ですから、それこそもう無茶苦茶だったわけです

このブログでも書きましたが、そういう時代に、天台宗に良源がでて、元三大師と呼ばれてる人ですけど、これがまた、ずば抜けた霊脳者だったんです。でも、実はこの人はですね比叡山で学問や論議を活発にした人なんです
つまり、ロジックですね、これを非常に重視した
それで、比叡山は開闢以来の全盛期を迎えました。それが、鎌倉仏教の天才達が輩出される基礎になりました。

チベットでも、ヒンドゥーとごちゃごちゃになって、なにがなんだかわからなくなった時に、ツォンカパが出た。これも、どえらい霊能者です。この人も、ロジックをものすごく重視して、チベット仏教の本当の基礎を作りました。

感覚比べは収拾がつかなくなるので、ロジックを徹底してやるんです

ナーガルジュナの中論なんかもそれですね
もう、延々延々延々とやる

空海も、ロジックにはこだわってます。しかし、空海がほんとに何を考えていたか理解できる人は、たぶん、ほとんどいませんね
秘密曼陀羅十住心論とか、まだいいほうで、声字実相義くらいならまだなんとなく雰囲気がわかるけど、吽字義とかなると、おそらく分かってるつもりの方は、はったりで言ってるだけだと思うよ


これに比べれば、神道なんか、全くロジックゼロと言ってもいいですね
根拠を示せない前提を信じなければ、話が始まらない

まあ、信仰はロジックゼロでも成り立ちますから
なんでもかんでも、ありがたがってればいいんですからね
今でも、カルトとか、あれは「理解する必要はない」ってお約束で成り立ってるんで、頭のいい人がやってても不思議はないですよ



と、ここまでは前置きです

で、ちょっとしばらく、このブログでロジックをやるかな、と思ってですね
ソウルミラーネットワークをめぐる話題など、やってみるつもりです

僕はいちおうこれでも住職ですから、けっこう毎日忙しいんです。ですから、ややこしいことは省略します。めんどくさいです
徹底論証するヒマがありません。それで、いくら読んでもわけのわからん話だらけになると思いますので、毎日ごらんになってるたくさんの皆さんに申し訳ないな、と思います
僕はたいした芸はないですから、仏教的になります。それでよかったらどうぞ読んでくださいね


それで、Superpositionから始めようと思ったんですけど、これ量子論のテクニカルタームです

ああ、長くなったんで、以下次回で

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